NHK朝の連続ドラマの反社会性

今、NHK朝の連続ドラマは、ニッカウィスキー(固有名詞としてはウィスキーのィの字が特有のものであるようだが今は使わない)の創業者夫婦が主人公のようである。この宣伝効果なのか、巷ではウィスキーの売り上げが伸びているとも聞く。

筆者は、アルコール飲料といわゆる違法ドラッグとの間に習慣性・依存性薬物としての本質的な差異はなく、かたやアルコール飲料が合法で課税対象とされ、かたやドラッグの類が違法で当局の取り締まり対象とされるのは両者の発生の歴史的事情(アルコール飲料の発明はおそらく人類開闢とともに古く、その他のドラッグ類は古いが一地方にとどまるか、あるいは最近の発明)によるものでしかないと考えるものである。

アルコール飲料は、すべての習慣性・依存性のある薬物と同様、無害ではない。酩酊運転の危険は言うに及ばず、肝臓障害など各種の内臓疾患、はてはアルコー ル依存症(いわゆるアル中)などその害をあげればきりがない。だから、伝統宗教はキリスト教を例外として、仏教もイスラムも禁酒を戒律とするのだろうし、 キリスト教国としては異例かつ無謀な試みとはいえ、かつて米国で禁酒法が行われたのもそのような理由からであろう。

現在でも、アルコール依存症から抜け出そうと塗炭の苦しみを味わっている人も少なからぬことだろうし、その治療に当たっている精神科医療関係者からすれば、 アルコール飲料の販売と広告・宣伝がほとんど無制限であり、街に氾濫するコンビニエンスストアでそれこそコンビニエントに入手できる現状は噴飯物であろ う。

そのような事情を考慮すれば、現代社会におけるアルコール飲料の製造と販売、及び消費については、それが違法薬物と同じような危険なものであることを認識の前提とした上で、その他のこの種の歴史的背景をもつ事柄(煙草の製造と販売、及び消費)と同様、製造と販売については現在よりもいっそう厳格な規制(販売についてマスメディアを通じての広告・宣伝の規制、それが習慣性・依存性のある薬物であることの周知、販売場所の制限)を実施すべきだと思う。

このように考えると、「皆様のNHK」やら「公共放送」を自称するNHKが、アルコール飲料の危険性について一切触れることなく、ウィスキー製造及び販売会社の創業者夫婦の苦労話を、朝っぱらから、延々、半年にわたって「美談」として垂れ流すことが、いかに反社会的な犯罪行為であるかがわかる。

そもそも、NHKはこのような内容のドラマを制作・放送すべきではなかったが、放送してしまった以上、その後始末を能う限りすべきである。今からでも遅くない、毎回の放送ごとにテロップないしアナウンサーの言葉で、アルコール飲料の危険性を周知するなどし、次回の連続ドラマはアルコール飲料の危険性をテーマとした内容で「解毒剤」として放送すべきである。

もしNHKがこのような反社会的な行為について無自覚なままこのウィスキー連続ドラマを放送し続けるなら、ほとんど野放しに近いアルコール飲料の販売状況を憂慮する一市民として、NHKに対してしかるべき抵抗を為す権利を留保するものである。

67回目の敗戦記念日

きょう、わが国では67回目の敗戦記念日。

この戦争で命を落とした幾千万の人を思い、戦場に赴くこともなく、空襲の中を逃げまどうこともなく生きてこられた自分のありがたさをかみしめるとともに、世界中で今もなお、戦火に倒れる人が絶えないことを悲しむ。

戦争はなぜ起こるのか。その原因は、煎じ詰めれば、戦争によってどんな悲惨なことが起こるのか、自分及び自分の周囲の人々がどれほど不幸な状況に陥るのかについての想像力の欠如に帰する。もしも、自分や自分の大切な人の頭の上に爆弾が雨あられのごとく落ちてくることを想像できるなら誰も戦争などを始めないだろう。

爆弾を落とす人も、その爆弾が破裂した先でなにが起こるかを精細に想像できるなら落とすことを躊躇するだろう。多くの人がそういうことを想像する力を持たなくなると、戦争は近い。

「汝の欲せざるところを人に施すなかれ」とは至言であるし、人々がこのことを不断に意識し続けるなら、「絶えてこの世に争いのおこるまじきものを」なのであるが、しかし……

 

 

男の嫉妬

嫉妬というものは、男がしても、女がしても困ったものだが、男の嫉妬は、それがなにやらもっともらしい理屈をくっつけて現れるものだから、とりわけ始末が悪い。

朝日、読売、毎日、日経など新聞の編集幹部、TVのニュースショウのコメンテイターなどによる小沢たたきは、まさにこれの典型だ。

彼らが小沢氏に投げつける「壊し屋」だの「金権政治家」だのというフレーズは、屁理屈以外の何物でもないが、そういうレッテルを貼って喜んでいる彼らの心底にあるのは、ただ単純に、小沢氏にたいする男の嫉妬だ。

自分たちが、嘘とごまかしの人生、卑屈と追従の人生を生きてきたことに忸怩たるものがあるので、それとは対極にある小沢氏の生き方に、もうどうしようもないほどの嫉妬をしているのだろう。文字通り、身体がわなわな震えるくらいの嫉妬を。

自分たちにはとうてい理解できない大きな存在であることを素直に認めればよいものを、人間としての器量が小さいものだから、それはできない。できないどころか、小沢氏が着々と信念に従って「千万人といえども吾往かん」の気概で歩を進めていることに、なおさら嫉妬が募る。

最近の新聞TVによる小沢報道の偏向ぶりは常軌を逸しているが、その根底に男の嫉妬があると見て取れば、なるほど腑には落ちる。

腑には落ちるが、しかし、こんな腹を空かせた犬猫でもまたいで通るような、やくたいもない男の嫉妬がひねりだした「小沢悪者論」という妄想を、疑いもせず信じ込んでいるように見える同胞がいるとなると、笑って済ませるわけにはいかない。なにしろ主権者は国民なのだから、妄想にとりつかれた一票もこれまた一票。男の嫉妬が生み出した妄想が人から人へと取り付いて、ひょっとしてわが日本の政治の在り様を決めかねない。

そんなわけで、今、わが国の政治にいちばん必要なものは、男の嫉妬の解毒剤である。

そういうものがあるとして。

 

私家版昭和平成史世相篇3 「AKB48の総選挙結果」

今朝のNHK・BSニュースで、「AKB48の総選挙結果」を真面目に正面からニュースとして扱っていた。いわく、メンバーの誰それが最高得票でした、と。

「AKB48の総選挙」というのは、ある芸能プロデューサーの企画したタレント及び楽曲売り込みのイベントだったと思うが、天下の「公共放送」NHKがそれをニュースとして報道する。

これを天下太平の慶事というべきか、天下混乱の凶兆というべきか、なんとも言葉がない。

タガがはずれかけたこの国

NHKの経営委員長が、東京電力の社外取締役との兼任を批判され、兼任は違法ではないとしていったんは続投を表明したものの、数日後に撤回して辞意表明に至るというドタバタ劇を演じたが、辞意表明の記者会見で、経営者は昨日判断したことでも状況が変われば正反対の判断をすることもある、という趣旨の発言をしたという。

「君子豹変」ということだと言いたいのだろうが、それは違う。この程度のことにそんな大仰なことを持ち出したらお天道様に笑われる。いちおう公共放送ということになっているNHKの監督組織の責任者と、個別企業の取締役の立場とが両立し得ないことなど、ちょっと気の利いた人間なら、たとえ中学生でも直ちに分かることだ。

この人物、JFEホールディングスの社長だったそうだが、JFEといえば川崎製鉄と日本鋼管が合併してできた会社だ。この程度の人物でも、日本を代表する製鉄会社の責任者が勤まったとは驚きである。

が、しかし、こんなことにいちいち驚いていては、この国では身が持たないかもしれない。総理大臣をはじめ政府高官から政権党幹部に至るまで、誰一人として公約違反や失政の責任をとろうとしない有様では、たかがNHKの経営委員長ごときが、中学生に引けをとろうとなんだろうとお構いなしなのだろう。

上が上なら下も下、どうもこの国は、タガがはずれかけているらしい。

私家版 昭和平成史 世相篇2 「公共空間の私化」

平成24年3月某日、朝7時半頃、東京近郊を走る上り各駅停車の、ほぼ座席が埋まる程度の私鉄電車内の出来事。

途中駅で乗り込んできた20歳代と思われる女が、座席を確保するやいなや、バッグから某コンビニのシールのついた袋入りの調理パンを取り出し、悪びれる風もなく、大きな口を開けてかぶりついた。数分でその調理パンを食べ終わると、今度は、袋入りの菓子パンを取り出し、同様にむしゃむしゃと。

この10分足らずの間、前後左右の乗客は、訝るでもなく、平然と、というように見える態度で、本を読んだり、携帯をいじったりそれぞれの世界に没頭。

行楽地などに向かう長距離列車ではなく、せいぜい数十分程度の乗車時間しかない郊外電車内で、この20歳代女のごとく、あたりも構わず朝食をむさぼる傍若無人の風景がしばしば見られるようになったのは、平成に入ってから数年してのことか。

言うまでもなく、通勤電車の車内は公共空間であり、そこでは飲食や化粧の類の私的行動は慎むべきものであることは、暗黙のルールとして了解されていたはずのものだが、いわゆるバブル経済の崩壊と軌を一にしたのか、上述のごとき堂々たる飲食や、塗るの描くの大わらわの化粧など、公共もへちまもあったものかというごとき振る舞いが目に付くようになった。

経済のバブルが文字通りうたかたのごとく消えるとともに、公と私の区別をつけるルールも幻のように消えてしまったのだろうか。

私家版 昭和平成史 世相篇1 「3月11日の黙祷」

平成24年3月11日午後、東京郊外のショッピングモールにいたら、店内アナウンスがあって、1年前の大震災発生時刻になるので黙祷をお願いします、とのこと。

「黙祷」のアナウンスとともに、ざわめきがやや静かになった。少なからぬ人が、そのアナウンスに従ったようだ。

この黙祷を呼びかけるアナウンスは、その施設独自の判断によるものなのか、あるいは、その筋からのお達しに従ったものなのかは不明。

毎年夏の終戦記念日(と大方の人は言うが、本当は敗戦記念日)の正午頃、甲子園の高校野球会場では、場内放送に従って試合を中断し黙祷をしているが、、あのときも、デパートなど人の集まるところでは、店内放送で黙祷を呼びかけているのか。その時分は、旧盆なので、筆者はたいてい自宅におり、繁華街にいた経験がないのでどのようになっているのか知らないのだが。

3月11日の黙祷呼びかけは、今年限りのことなのか、それとも来年以降もずーっと続けるのか。どうなのだろう。

ちなみに、筆者は、その場では黙祷に加わらなかった。どこの誰とも分からぬ人に放送で指示されて、一斉に黙祷するなど、自分の感性ではできない。大震災で非業の死を遂げられた方々のご冥福を祈るのは、自分なりの工夫で臨みたいと考えている。

 

「絆」「支えあい」と「一億総懺悔」

もうすぐ、大震災から1年。その1年が過ぎようとしているこの国で、「絆」と「支えあい」が、はやり言葉になっている。「がんばろう、東北」とか「がんばろう、日本」とかいう言葉もよく聞く。

たしかに、未曾有の災害を経験して、人々が、人間自然の感情の発露にしたがい、「絆」を再確認したり、「支えあ」うのは当然であるし、「がんばる」ことが必要な場面もあるとは思う。

だが、これらの言葉が、あの大震災の経験を、天から降ってきた、誰にも責任のない、不可抗力の運命であり、したがって誰の責任を問うことできず、甘受するしかないものであるので、だから人は皆助け合わねばならないのだという文脈で使われるのなら、話が違う。

地震と津波は天災だったが、福島原発は人災である。「原発安全神話」をばらまいてきた人々、地震と津波の常襲地帯の海岸に無造作に原発を立地した人々、事故発生後に事故が大したことのないように嘘をつき続けた人々、これらの人々による災害、すなわち人災である。加えるに、復興が遅々として進まないことも人災である。

これら人災の責任の所在を明らかにせず、有責者に償いをさせないままであると、この人々は懲りることなく再び同じ過ちを繰り返すことになるに違いない。

こうしたことを考えることなく、すべての人が等しく「絆」を確認したり「支えあい」をすべきであり、「がんばる」べきであるというなら、そういうことは、大震災の人災としての側面を曖昧にし、無責任な振る舞いによって甚大な被害をもたらした人々の責任をうやむやにすることになるのであり、ひいては、このたびと同様の災厄を将来にわたって繰り返すことを防げないだろうと言わざるを得ない。

そういえば、われわれは、敗戦直後、「一億総懺悔」という言葉によって、あの無謀な戦争の責任の所在を曖昧にしたまま今日に至っているのだった。

「災害は忘れた頃にやってくる。」

災害は、天災と人災だけではない。戦争も、また災害である。

 

検察官が犯罪を組織的に行う怖い国

2月17日に東京地方裁判所であった、いわゆる「小沢強制起訴裁判」の証拠採否決定。この決定理由書の中で、裁判官は、検察審査会がいわゆる強制起訴を決定するに当たってより所とした、小沢氏の元秘書・石川代議士の供述調書や検察官の捜査報告書が、違法・不当な方法によって作成されたものであり、しかもその違法・不当な方法は組織的に行われたと見られると述べた。

これは重大だ。というのは、あの裁判所ですらが、すなわちあの刑事裁判有罪率100%近い裁判所ですらが、ということは検察官の言いなりの判決を出す自動有罪マシーンのごとき裁判所ですらが、東京地検特捜部の検察官の行動を、違法・不当かつ組織的と断じたからであり、つまりはこの検察官たちの犯罪ぶりは隠しようがないほど明々白々なこととなったからだ。

ところで、裁判官が、検察官の行動が違法・不当かつ組織的だと言ったのは、特捜部は犯罪組織だというのと同じことだ。

怖い、怖い国だ。公訴権を独占している検察官が、正義の味方であるどころか、犯罪者集団だというのだから。怖い。この国の国民は、いかにまじめに生きていてもどんなに犯罪とは無縁の生活を送っていても、いったん検察官ににらまれたら、それで一巻の終わり、起訴され有罪にされ刑務所に送られ、人生をめちゃくちゃにされるのだ。

新聞TVも共犯だ。なんとなれば、彼らは、こうした検察の犯罪を糾弾するどころか、逆に、検察のお先棒を担ぎこれら無実の人々を叩きまくるキャンペーンに全精力を傾けているからだ。

裁判所もしかり。昨年9月の、「陸山会事件」の判決で、東京地裁の某裁判官は、刑事裁判の鉄則「疑わしきは被告人の利益」ではなく、あろうことか、確たる証拠もないのに「推認」に「推認」を重ねて、検察官の言いなりの「疑わしきは被告人の不利益」の有罪判決を出したのだから、これも立派な共犯だ。

怖い国だよ、この国は。はたして、この国に「正義」というものはあるのだろうか。

「右手のすることを左手に知らせない」

小沢一郎氏が、年の始めに、地元岩手民主党の会合で、「政治家の仕事は震災被災地のお見舞いに回ることではない。もっと他にやることがあるはずだ」旨の発言をしたという。

TVカメラの前で、被災者を激励するパフォーマンスなんかしている暇があったら、復興のための条件整備、しかも大災害時だからこそ必要な抜本的な条件整備に尽力するのが政治家たる者の務めだろうというわけだ。正論である。いつものことだが、正論を堂々と主張するから、この人は、後ろめたいことをしている一部の政治家や高級官僚、大手マスコミ幹部に嫌われるのだろう。良薬口に苦し。

古来、お見舞い、援助に寄付、支援だボランティアだなどというのは人知れず静かにやるものだと相場が決まっていた。(「陰徳を積む」) それが、近頃では、政治家に限らず、有名人という人種が鳴り物入りで支援だボランティアだとはしゃいでいる。

そんな有様をみていると、「右手のすることを左手に知らせない」という言葉が浮かんできた。ご存じ、キリスト教の『新約聖書』中の言葉だ。

この「右手云々」の前後はこうなっている。「自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。(マタイによる福音書)」

「天にいます父」を、日本風に「お天道様」、中国風に「天」、あるいはインド風に「お釈迦様」としても、そのまま通用するだろう。つまり、善行は、密かに行われるから善行なのであって、「これから善行をやりますよ」と鐘と太鼓でふれ回るものではない。そんなことなら、それは善行ではなく、ただの売名行為、すなわち偽善だ。

災害があると、いっとき支援やボランティアが集中する。しかし、それも半年一年と経つとだんだん減ってくる。災害の教訓も数年は語り継がれる。だが、十年二十年経つと、あったことさえ忘れられるようになる。人の気は熱しやすく冷めやすい。だから、「災害は忘れた頃にやってくる」のだろう。

風水害に地震の常襲地帯にあるこの国で、偽善ではない支援、災害を忘れない教訓は、どうしたら成り立つのか。平凡なようだが、小沢氏の言うごとく、それぞれの人がそれぞれの持ち場でそれぞれの務めをきちんと果たすこと以外にないのだろう。