「小沢一郎氏が不穏な動き」と報道するマスコミの罪業

たまたま、テレビを見ていたら、ニュースと称する番組で「小沢一郎氏が不穏な動き」と題して、小沢氏が支持者の集会にビデオメッセージを送ったこと報じていた。

「不穏な動き」?

これじゃあ、まるで小沢氏が銀行強盗でもたくらんでいるような印象になるじゃないか。

このテレビ局のニュースと称する番組の制作に関わる連中は、この言葉の意味が本当に分かってやっているのかね。分かってやっているのなら大したものだが、まあ、この連中にそんな知恵はないだろうから、言葉のちゃんとした意味を分からずに、「小沢は悪い奴だからなんとなく悪そうな印象の言葉を使ってやろう」くらいのところなのだろうよ。

でも、彼らの無知というか浅知恵というかはともかく、結果として、このニュースと称する番組を見た大衆は「小沢は銀行強盗か何か、よほど悪いことをたくらんでいるのではないか」と思い込むことになる。

というわけで、またしても、このテレビ局など、バカの一つ覚えのように「小沢は悪い」を連呼するマスコミは、罪作りの悪行を重ねた。

「バカは死んでも治らない」というが、日本のマスコミのバカさ加減は「死んでも治らない」どころか未来永劫ものだ。

日米安保という名の「国体」

第2次世界大戦前は、万世一系の天皇統治が「国体」であった。

戦後は、日米安保体制が不動の「国体」になった。

小沢一郎氏をおとしめようとする連中の性根を腑分けしていくと最後に残るのは、日米安保という名の「国体」を護持しようという心性なのだ。

日米安保体制を変革しようとする人物は、万世一系の天皇統治に反対する人物と同様の「国体」の破壊者、すなわち非国民だから、法の保護の外におかれる。基本的人権は認めない。でっち上げの「政治とカネ」だろうが拷問による自白だろうがお構いなしというわけだ。

そう考えると、官僚(検察)・マスコミ連合軍による小沢たたきの構図がよく見える。

彼らは、戦前もそうであったように戦後も「国体」の守護者なのだ。戦前の有力なメンバーだった陸軍海軍が今は抜けているという違いはあるが。

彼らは、小沢氏のように覚悟を決めて日米安保という「国体」を変革する行動を起こそうとする人物が現れると、一斉に牙をむいて襲いかかる。

菅なにがしのような覚悟もなにもないどうでもよい軽い連中は泳がせておくし、仙谷なにがしのように小沢氏つぶしの先兵役は重宝に使う。

官僚(検察)・マスコミ連合軍が「国体」の護持者になるのは、そうすることで現世的な栄耀栄華を極められるからという実利があるからなのだが、それにしても、機を見るに敏な連中である。

敗戦後の米国軍隊による占領とその下での「民主化」。権力は大日本帝国天皇から米国に移転したのだ。そして、彼らのご主人様も、天皇から、勝利者であるアメリカに取って代わったというわけだ。

こういう連中のことを、オポチュニストというのだったと思うが、要するに節操のない連中ということだ。

それを、日本の官僚は優秀だとか清潔だとか持ち上げるバカが後を絶たない。

困ったものです。

北海道衆議院補選

民主党候補が負けたようだ。

またぞろ、大新聞・TVなどメディアの「政治とカネ」の大合唱。こういうのをバカの一つ覚えと言う。

そんなに小沢一郎氏が怖いのかね。郵便ポストが赤いのも、電信柱が高いのも、何でもかでも小沢氏のせいにしておけば気が済むのかね。

バカじゃないか。

ブログ主の見るところ、この補選の結果は、鳥の羽よりも軽い菅なにがしという総理大臣とそれを担ぐ民主党の仙谷一派の行状にあきれた国民の声の代弁である。

「国民の生活が第一」という至極まっとうな主張を掲げた小沢民主党に期待し一票を投じた国民が、菅なにがしとそれを担ぐ仙谷一派による民主党政権乗っ取りに裏切られた思いを深め、投票に行かないか、あるいはやむなくあの「政界嫌み氏」に票を投じたということなのではないか。

投票率が低かった理由はもう一つ、このバカの一つ覚えしか繰り返せないメディアへの拒否反応もあったと思う。あのバカなメディアが騒ぐのだから、選挙とやらはよほどおかしなものに違いない。であれば、そんなものには近づかないに越したことはない。とまあ、こんな具合ではないですか。

バカの一つ覚えを繰り返すメディアの罪は万死に値する。

権力闘争

小沢一郎氏が、検察審査会の決議を受けて、「これは権力闘争だ」と側近に語ったという。

まさにその通り。

いま、わが国で行われているのは、主権を、高級官僚とマスコミから、国民の手に取り戻す権力闘争だ。

憲法には、主権は国民にあると書いてあるが、実体は違う。

タテマエでは、国民が選んだ議員が、国民に代わって権限を行使し、法律や予算を作ることになっているが、実際にはほとんどすべてが官僚の書いた筋書きにそって動いている。これに異を唱える人や組織が現れると、マスコミが嘘八百を並べ立ててキャンペーンを始め、葬り去ろうとする。大勢に流されやすい傾向を持つ国民がこれに洗脳され、そうだ、そうだと同調する。検察審査会の平均年齢30歳というメンバーがまさにそうだ。そして、すべては官僚組織の思うとおりにことが運ぶ。

小沢氏は、このような、憲法の国民主権原理がないがしろにされている異常事態を革(あらた)め、主権を国民の手に取り戻すための闘争の先頭に立っている。

国民が主権を行使する、唯一の機会は選挙の投票だ。だから、小沢氏は選挙を大事にする。選挙運動を通じて、主権者である国民と対話し、国民の意向を肌身で感じようとする。主権者としての自分たちを大事にしてくれることがわかった国民は、小沢一郎氏の強固な支持者となる。愛想がないだとか、TVにチャラチャラと出て実力もないのに名前だけ売ろうなどというさもしいことをしないとか、本質的でないことは評価の対象にしない。さらに、小沢氏の言動を通じて、高級官僚とマスコミ連合軍の策動がどれだけわが国と国民の利益を損ねているかを理解するから、これに対しても厳しい視線を向けるようになる。

このことがわかっているから、高級官僚とマスコミは必死になって小沢氏をたたいている。小沢氏こそが、自分たちの既得権という砦を滅ぼす軍勢の総大将だから。「小沢をたたけ、小沢を亡きものにしろ」というのが彼らの合い言葉だ。自分たちの手から権力と既得権を奪われまいと死にもの狂いになっている。この姿勢はほとんど本能的である。高級官僚やマスコミの連中はもともと権力志向が強いから、その職業を選んだわけで、そうした権力志向の連中がいったん味わった権力のうまみを簡単に手放すはずがない。

われわれが、主権者とは名ばかりの、高級官僚・マスコミ連合軍にいいようにあしらわれる二流国民の状態に甘んじたくないなら、とるべき道は一つ、主権を国民の手に取り戻す闘争の先頭に立つ小沢氏を支援する行動をできる範囲でやることだ。

ブログ主は、次のことを実践している。

新聞の購読をやめる、テレビのワイドショーは見ない、NHKに電話して偏向報道をやめるよう要請する、身近な人々に、機会あるごとにマスコミの政治報道、とりわけ小沢氏の「政治とカネ」の話が嘘であること噛んで含めて説明する。

道は遙かに続き、日が暮れてなお目的地は見えない。多勢に無勢、どうせ自分一人が動いたってどうにもならない、やめたやめた、というわけでついつい日常の些事にかまけてこの戦いをあきらめてしまいたくなる。ありがちなことだが、そのような気持ちが起こったときには、あきらめることによって喜ぶのは、われわれに不幸をしわ寄せして恥じることのない高級官僚・マスコミ連合軍であることを肝に銘じ勇猛心を奮い起こすことである。

衆議院の予算委員会

野党第1党の幹事長をしている石原某という人物が、またぞろ、「政治とカネ」と擦り切れたレコードのように繰り返したようだ。

愚かなことだ。

小沢一郎氏の政治資金をめぐるバカ騒ぎは、事件でも何でもない。小沢氏が政治家として力を発揮されたら、自分たちの既得権が失われて困ることになる高級官僚(その前衛である検察)とその走狗である既成マスコミによる国民目眩ましの妖術だ。

それを知ってか知らずでか、石原某はしたり顔で「政治とカネ」と連呼する。官僚機構をコントロールし、国民生活の向上と国としての独立と安全を図らなければならない立場の国会議員が、官僚の書いた脚本通り演じてどうする。これでは国会議員はまるで操り人形ではないか。

こんなことをしていて喜ぶのは、政治家に不信感をもち、ひいては政治に無関心になる国民が増えることで漁夫の利を得る高級官僚だけだ。

ところで、石原某という人物は、都知事の長男だということだが、この人物からこの親を引いたら何が残るのか。(もっとも、この親にしても、某有名俳優の兄というのを引いたら何が残るのか、だが。)

数年前、この石原某が大臣をしていたとき、所管の道路公団の総裁の首を切るのにたいそう手間取ったことがあった。このこと一つとってもこの人物の政治家としての力量は大したことはないことがわかる。上司としての力量のあるなしが端的に現れるのが人事、なかんずく辞表を預かることだからである。

野党とはいえ第1党の幹事長というのは枢要なポストだろう。それがこの程度で勤まるのか。

まあ、この野党第1党がどうなろうとそれはかまわないのだが、ことは、議会制民主政治の根幹に関わる話だ。野党が、国民生活の向上と国の独立と安全をテーマに正々堂々論争を挑まず、官僚の振り付け通りに踊っていてどうする。

ちゃんとやりなさい。

[追記]

高級官僚・マスコミ連合軍がこれほどまでに小沢たたきに熱心なのは、事実上のわが国の宗主国である米国政府が、なんらかの形でお墨付きを与えているからなのだ、という説がある。そうかなあとも思えるが、確証はない。ただ、状況からして、米国の軍需産業、軍部など日米安保体制が今の状態であることから利益を得ている人々が、小沢氏のように「米軍のプレゼンスは第7艦隊だけでよい」と平然と言ってのける人物に日本政府の舵取りをしてもらいたくないと考え、わが国の「日米安保体制は錦の御旗」派になんらかのシグナルを送っていることは大いにありうることだ。

それにつけても、わが国は、敗戦このかた独立国としての矜持を失い、米国の51番目の州であるかのような状態を続けているとブログ主は思う。その一番の例証は首相の代替わりごとにまるで参勤交代のようにワシントン詣でをすることだ。
わが国が本当の独立国になるには、明治維新前後から敗戦に至る歴史についての国民的再認識が必要かと思う。

マスコミの「小沢恐怖症」

マスコミの反小沢の構えは、彼らの恐怖の感情の裏返しです。

小沢一郎氏はたたいてもたたいても平然としている、と彼らには見えます。

普通の政治家は、マスコミの、本当は実体のない力に怯えてすぐ降参しますが、小沢氏は昂然としています。

たたけば降参するだろう、俺たちは強いんだから、と根拠もなく思い込んでいるマスコミは、意外な展開にうろたえます。日頃から、攻撃するのは得意だが、反撃されたり怒られたりすることには慣れていない彼らのことです。この意外な展開が、だんだんと「小沢は得体が知れない」という感覚に変じ、いつしか「小沢になにをされるかわからない」という恐怖感となっていきます。

昨今のマスコミの常軌を逸した小沢たたきは、この恐怖感が生んだ怯える心がそうさせていると考えると腑に落ちます。怯えるあまり、目にする小沢、耳に聞こえる小沢のすべてが怖い、怖いからなにが何でもたたく、あらん限りを尽くしてたたく、とまあ、ざっとこんなところではないでしょうか。

つまり、「小沢問題」は、実は「マスコミ問題」なのです。「小沢恐怖症」という病気にかかったマスコミの。それを、「国民目線」だの「市民感覚」だのと目くらましの看板を掲げて自分たちの弱さ小心さを隠し、あたかも国民の代弁者であるかのように振る舞うお粗末なマスコミ。

困ったものです。

小沢一郎氏の反撃を支持する

小沢一郎氏が、検察審査会の不当な議決に対抗して、議決無効の訴訟を起こすという。

ブログ主は、この小沢氏の正当な権利行使を断固支持する。

先に、ブログ主は、「検察審査会という犬に吠えられたときは?」と題して駄文を草し、その中で、無視するのがよかろうと申し上げたが、それを訂正する。

ネットで伝えられる大新聞の、この件に関する論調は、言うも愚かなほど劣悪なもので、その有様は、検察審査会という犬が吠えたら、野良犬多数が雷同して吠え出す騒ぎの如し。

町内に、かくも多数の野良犬が横行し、ところかまわず吠え出すに至っては、対抗措置という野犬狩りが必要になったと思う。

小沢氏は、野良犬の吠え面は粛粛と無視して、とるべき措置を決然と進めていただいたらよろしい。

検察審査会という犬に吠えられたときは?

あなたが、道を歩いていて、突然、正体不明の人物が連れている、検察審査会という品種の犬に吠えかかられたらどうしますか。三択です。

(ア)無視する。

(イ)反撃する。

(ウ)土下座して謝る。

状況にもよりますが、ブログ主なら、(ア)無視する、を選びます。ま、それがふつうの大人の対応というものでしょう。

反撃する、という選択もありそうですが、おやめになった方がよろしいです。だって、ちゃんと狂犬病の予防注射をしているかどうかわからないでしょう?

ところが、あのマスコミという、「小沢嫌い病」にかかっている連中は、(ウ)土下座して謝る、を選べと言っているんですね。

バカじゃないか。

あ、あの正体不明の人物ですが、アメリカというブランドのジーンズをはいて、官僚というブランドのTシャツを着ており、額のあたりにマスコミという文字が浮かんでいたそうですよ。

巨悪はマスコミ

例の検察審査会の話題。

マスコミは、「健全な市民感覚」で「巨悪にメス」とはしゃいでいるのでしょう。

これは、逆さまです。

巨悪はマスコミです。検察のデマ情報を垂れ流し、国民の一部を洗脳した罪は、巨大です。

「嘘も百回繰り返せば真実になる」とナチスドイツのゲッベルスは言いました。「理屈は後から貨車いっぱいついてくる」とソ連のスターリンは言いました。

わが日本のマスコミの狂態を、お二人なら、自分の正統なる後継者としてお喜びになることでしょう。

このブログをお読みになる方にお願いです。どうか、マスコミの言うことを鵜呑みになさらないでください。

民主党代表選で、あれほどまでにマスコミが「政治とカネ」「小沢は悪」とキャンペーンを張りながらも、なお、民主党国会議員411人中の200人、地方議員2382人中の927人、党員・サポーターの投票総数約23万人中の9万人が小沢氏を支持したのです。

この人たちが、小沢氏の魔術に洗脳されて投票したのでしょうか。

いやそうではないですよね。ちょっと立ち止まって考えてみましょう。マスコミのようにそれこそマス(大量)な伝達手段をもたない小沢さんですよ。多勢に無勢、そんなことできるわけがありません。

そうではなく、代表選中に示された、あるいは代表選以前からあった、小沢氏の人間として政治家としての器量、識見、そして指導力をこの方たちが認めたからこその支持だったのです。

もういちど繰り返します。

現下のわが国で政治家としてナンバーワンの力量をもつ小沢氏を、まったく根拠のない「政治とカネ」キャンペーンで吠えかかったマスコミの罪は巨大です。

巨悪はマスコミであって、小沢氏ではありません。

外交の独立と国の独立

昨日の記事で、戦後のわが外交について独立国としての体をなしていないとしたが、政府、外務省レベルはともかくとして、国民レベルでは、幾たびか、外交の独立ひいては国の独立や安全保障が政治的争点として浮上したことがある。

まず第一は、全面講和か単独講和が争われた占領下、第二は、日米安全保障条約の改定が問題となった1960年、いわゆる60年安保、第三は、60年安保から10年が経過し、条約をどちらか一方の破棄通告で終了させることができるようになった1970年、いわゆる70年安保。

その後は、沖縄の過剰な基地負担が安全保障のあり方と関連づけて問題にされることはあったが、その際も、基地問題の根底にある外交の独立や国家としての独立が問題とされることはなく、むしろそうしたことを政治上の争点とすることはタブー視されてきた。

これは、いわゆる「日米同盟堅持」の題目のもと、外交や安全保障の問題から国民の目をそらし、他国の軍事基地が国内にあるという不正常な状態が何の疑問ももたれることなく続くことで利益を得る集団が、意図的に演出してきた結果だ。その集団とは、巷間指摘される「日米安保マフィア」なるもので、実体はおそらく日米両国にまたがる軍産政複合体と彼らからのおこぼれに預かるマスメディアの一部であろう。

昨年夏の総選挙で、鳩山民主党代表が、ことの弾みとも思える軽さで、沖縄の普天間基地移設問題を「最低でも県外」と訴えたことから、その流れが変わり、外交や安全保障がほんとうに久しぶりに政治の焦点になった。鳩山氏は、結果的には普天間問題の解決には至らなかったが、外交や安全保障問題を国民の意識にのぼらせた功績は大きい。怪我の功名というべきか。

次いで、今般の民主党代表選で、小沢一郎氏が、年来の主張である「自立した国民による自立した国家」を踏まえた堂々たる日米、日中対等外交論を提起したことで、多くの国民に、外交問題や安全保障問題を正面から国民的議論の対象とするべき時期が到来したことを印象づけた。

さらに、今回の尖閣諸島をめぐる政府の不手際が、国民の間に潜在していた、日本は果たして本当に独立国なのか、という疑問の噴出に火をつけた。

こうして、70年安保から40年、ようやく、国の独立や安全保障が外交のあり方と合わせて議論されようとしている。

このことを、ブログ主は素直に喜びたい。

なぜならば、国の独立や安全保障など、国民としてきちんと正対すべきことができていないという不正常な状態が終わるからだ。

だが、一方で懸念もある。

それは、一部の国民にみられるショービニズム(排外主義)の傾向である。在日韓国人、在日朝鮮人に対するいわれなき悪罵や、中国や中国人に対する同様の態度は、外交や安全保障を議論するとき、百害あって一利なしの、きわめて危険な傾向だ。

ブログ主は、このような危険な傾向とは断固戦うことを明らかにしておく。