大相撲とプロレス、そしてマスコミの偽善について

またぞろ大相撲の八百長話。

こんなことは、珍しくもなんともない。昔からいくらでもある話で、知っている人はちゃんと知っている。

相撲中継にご執心のNHKをはじめ、マスコミの皆さんなら、相撲が八百長そのものの世界だなんぞということは百も承知のはず。知らないとは言わせない。知らないというなら、それは自分たちの取材について無能かつ怠惰を自ら認めることになる。

ところがどうだ、この連中ときたら、まるでおぼこ娘みたいにそんなこと露も存じませんとばかりに口を拭って知らん顔、あろうことか、嵩に掛かってやいのやいのと責め立てる始末、あのね、こういうのを、まっとうな世の中では偽善というんだよ。

ところで、ブログ主は、相撲の八百長なんぞ、なんとも思っちゃいない。

むしろ、こんなことを、何様のつもりか知らないがマスコミどもが、八百長なんぞと言って、天下の大罪ででもあるかのように騒ぐこと自体、間違っていると思っている。

そこで、その八百長とやらのことだが、相撲とはとんと縁がないブログ主でも、相撲の八百長がどんなものかくらい、先刻承知だ。

使者に立つのは床山や呼び出し、星一ついくらで取引が行われる。千秋楽当日、片や8勝6敗で勝ち越しは確定だが三賞には遠いという力士、片や7勝7敗、この一番で白星を上げなければ負け越し確定で幕下転落確実、しかも部屋で幕内はこの力士だけとなれば、部屋の経営にも関わってくるわけで、何十万、場合によっては何百万が動いても不思議でも何でもない。一方、八百長話を受ける側も、明日はわが身、相身互いだから、今場所はごっつあんです、先々、攻守ところを変えることになったら、そのときはよろしくというわけ。

ま、実態はこんな次第で、当たらずとも遠からずというところだろう。

お分かりのように、これすなわち、義理と人情、共存共栄と思いやりが真骨頂の日本社会そのものなのだ。

だから、相撲の八百長を糾弾することは、日本社会そのものを糾弾することに等しい。

じゃ、何でこんな騒ぎになるのか。もちろん、マスコミの罪が大きいが、相撲の勧進元である日本相撲協会のやりようにも問題がある。

元々、相撲は、日本的稲作農耕社会で村落の繁栄と五穀豊穣を願う神事の余興として始まったものだ。秋の村祭りで、子どもや青年が、鎮守の杜にしつらえられた土俵で取り組む、それを囲んだ村人が笑いさんざめきながら、実りに感謝し共同体の結束を再確認するといった場面を思い浮かべれば、このことは了解していただけよう。

それを、なぜかは知らないが、国技などと称し、国技館なる建物を造り、さらには相撲道などと「道」にまでしてしまったから、さあ大変だ。国技で、しかも相撲道ときたら、八百長なんてことは許されるわけがない。おまけに、協会も、財団法人の看板なんか掲げるから、小役人(文部科学省)の、公益がどうのこうのとか、青少年への影響がなんたらかんたらと、要らざる干渉を受けることになる。

まるで、自分で自分の首を絞めたような案配だ。

だから、協会は、柄にもないことをしないで、昔々、そうであったように、部屋持ち親方の集合体として、興業会社にでもなればよいのだ。

そう、プロレスのようにね。

プロレスも、プロレスを愛好する人々どうしの絆の確認や、ストレス解消、すなわちカタルシスという共同体の神事のような役割を担っていて、その意味で、相撲の担っている役割と共通するものをもっている。

プロレス草創期の立役者、力道山が相撲出身だったのは象徴的だ。

その、プロレスを、誰も、八百長をやっているといって責めはしない。愛好家は、プロレスとはそういうものだと思っているから、そこになんの問題も起こらない。

相撲協会も、検事上がりの小役人を役員として雇うなんぞというバカなことをせず、ここで心機一転、プロレス界にならって、親方衆の共同出資による株式会社化でもしてごらんよ。そのほうが、ずっとすっきりするよ。そうなったら、本場所も、海外巡業ではすでにそうしているように、公演と銘打って大々的にショーアップする、そうなれば、あの朝青龍のような悪役力士だって、プロレスがそうなように、十分活躍できる場面ができるし、興業会社としての利益だって天井知らずになるかもしれない。

こんなうまい話はないのにね…

新聞・TVという名の狂人

新聞・TVは、ジャーナリズムの一員ということになっていたのだが、このたびの、小沢さんをめぐる報道で、それが真っ赤な嘘であることが天下周知の事実となった。

検察審査会の議決による起訴は、どこをどうひっくり返しても無罪になるだろう。ほんの少しの知性と勤勉さをもって、関連資料にあたり事柄を整理すれば、小沢さんの「疑惑」なるものが根拠のない濡れ衣であることは一目瞭然だ。

まともな裁判官なら、裁判にならないとして公訴棄却を言い渡すはずだ。もちろん、「鳥なき里のコウモリ」のようなこの国では、裁判官が、霞ヶ関高級官僚軍団の一員として、あろうことか有罪判決を出す可能性も100%ないとは言い切れないが。

それをどうだ。各種の政治ブログサイトの伝えるところによると、新聞・TVは、小沢はけしからん一色で染まっているという。

彼らは、怠惰にも、ほんの少しの事実関係すらも自ら調べようとせず、検察や高級官僚の言うがままに、デマを垂れ流しているのだ。

この連中は、自分たちが何をしているのか分かっているのか。彼らのこの有様は、先の戦争末期、敗戦が確定的になっていたにもかかわらず、日本軍の大勝利、大戦果を歌い上げていたときと、寸分違わない。ほとんど、狂気である。

西ドイツ時代の連邦大統領、リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーは、連邦議会の演説で、「過去に目を閉ざすものは、未来に対してもやはり盲目となる」と述べたが、報道機関としての過去の罪から学ばない日本の新聞・TVは、未来どころか、この現在の、この瞬間についても、何も見えず聞こえないままであろう。

わが日本では、狂人が、ジャーナリストと称して、白昼堂々、公道を闊歩している。

ごっこ遊びの日本社会

菅直人や、この菅直人を民主党代表に選んだ民主党国会議員・地方議員・党員・サポーター、これらを報道・論評する新聞・TVの社員、政治評論家や経済評論家、これらの連中の言動を見ていると、総理大臣ごっこ、国会議員ごっこ、党員ごっこ、新聞・TVの記者ごっこ、評論家ごっこをしている子どものようにしか見えない。

子どもだから、誰も責任をとろうとせず、言いたい放題のやりたい放題。

いったい、いつからわが日本社会は、こうなってしまったのか。

1945年年8月の敗戦以降のことか。

当初は占領軍、その後は、アメリカ合衆国政府が、この子どもたちの保護者になった。

そういえば、占領軍総指令官だった米国軍人が、日本人は12歳の子ども、と言ったのだった。

まことに遺憾ながら、戦後のわが国の歴史は、この発言が正しかったことを証明している。

悔しくないのか、日本人。

格付け会社の怪

先日、スタンダードアンドプアーズ(S&P)という格付け会社が、わが日本国政府発行の国債の格付けを下げたことについて、総理大臣菅直人閣下が、「そういうことは疎いので」とやらかして騒ぎになったことは、1月31日の記事で触れた。

ま、菅直人の間抜けさ加減については、置いておくとして、マスコミが、この格付け会社がやっている格付けなるものについて、きちんとした判断をしないまま、やれ、国債の評価が下がったから財政再建だ消費税だ、と恐怖をあおったり、だから日本人は世界を知らないなどとしたり顔で言うのは犯罪的行為だ。

なぜ、犯罪的行為なのか。それを明らかにするために、まず、格付け会社とはそもそもなにをやっているものなのか、おさらいしておこう。

企業などの発行する社債などの債券(すなわち借金証書ですな)の評価=信用度、たとえば、その債券を買っても損をしないかどうか、つまり、その債券=借金証書がちゃんとものをいって、そのときがくればその借金の借り手がきちんと借金を返すかどうか=債券が現金化できるかどうか、あるいは、約束された利息がちゃんと支払われるかどうか、といったことは、債券を買おうとする人=金を貸す人にとってはすこぶる重要な情報だ。

そこで、登場するのが、この債券の評価を商売にする格付け会社という名の会社だ。

ちょっと前までは、格付け機関などと、さも、公共性をたっぷりもっているような名で呼ばれていた(今でもわが日本国では、一部の格付け会社は金融庁によって指定格付け機関と呼ばれている。)

だから、どこかの国の政府機関か、はてまた、国際連合の機関かと間違うが、そんなことはない。ただの民間会社だ。上記のS&Pやムーディーズなど有力な格付け会社はアメリカ合衆国のれっきとした民間会社だ。

さて、格付け会社も、会社である以上は稼がなくちゃならない。

じゃ、どうやって稼いでいるのかというと、これが、なんと、債券を発行する会社から格付けを依頼され、その手数料名目で金を受け取って稼いでいるのである。

株取引で巨万の富を築いたアメリカの大富豪ウォーレン・バフェットはムーディーズの最大株主でもある。彼は、アメリカでは企業が社債を発行するときは必ず格付け会社から格付けを取らなければならない仕組みになっていることをとらえ、制度的に手数料が入ってくるビジネスは儲かるから株主になっている、自分で株を買うときは格付けに頼らず自分で調べる、とのたもうているそうだ。つまり、格付け会社の仕事は信用しないが、儲かればそんなことはお構いなし、というわけなんだが、なんでしょうね、これって。

ワオ!

これ、利益相反という有名な話ですな。

たとえば、あの「白雪姫」。あの物語で、意地悪女王が、鏡に向かって「世界で一番綺麗なのはだあれ」と聞くでしょう。鏡が鏡でいられるのは、意地悪女王が鏡を壁に掛けている間だけ、自分の気に入らない答えが返ってきたらぶちこわされてしまうということだと、鏡はどうするか。鏡として生き残りたければ、色よい返事をするに決まっている。

鏡が格付け会社、意地悪女王が債券発行会社だとしたら、この格付け会社というものが、手数料をもらう相手の会社が発行する債券の評価について、実態とは異なる評価をする可能性が、いついかなる場合にあっても100%ないと断言できるだろうか。

さらに加えると、格付け会社の評価なるものは、過去の実績や市場の評判などから将来はこうなるだろうという、予測とか予言に過ぎないのであって、世の中、一寸先は闇なのに、神ならぬ人間の予測や予言がどこまで確実性をもつのかという根本的な疑問もある。

事実、今世紀に入って早々、アメリカはテキサスのエンロンなるエネルギー取引会社が、当時としては負債総額でアメリカ市場最大の破綻をしたが、格付け会社は破綻直前までエンロンを投資適格と、間抜けにも判定していた。

また、サブプライムローン問題以降、世界経済は不況の中にあり、日本の学生さんの就職難や中小の事業者さんの苦難はもちろん、世界中が苦しんでいるわけだが、そもそも、サブプライムローンという最終的には誰も借金を返さない借用証書を細切れにしてばらまいた債券に、大丈夫、信用できるから売買してオーケーとお墨付きを与えたのは、ほかならぬ、これらの格付け会社だった。

サブプライムローン問題は、アメリカの金融資本が世界を手玉に取った一種の詐欺事件だったが、この世界的詐欺事件の主役の一人は、サブプライムローンの細切れ入りの債券に、優良な格付けを与え、結果的に信用不安といういわば経済活動にとってのウィルスを世界中にばらまくことになった格付け会社だったと、ブログ主は思っている。

という次第で、ブログ主のような経済音痴でも、ネットで調べれば、格付け会社の格付けなるものがかなりいい加減で、当てにならないものであることはすぐにわかる。だから、格付け会社の格付けなるものをかつぎ回って、あることないことない交ぜにした虚偽情報を垂れ流すのが、どんなに犯罪的なことかもすぐにわかる。

そうだというのに、マスコミの諸君の報道は、いったい何なのか。記者クラブで麻雀・花札で遊ぶのに忙しくて勉強している暇がないか。それとも、記者クラブでとぐろを巻いていれば、財務省だかなんだか知らないが、発表資料がごまんと下げ渡されて、それを右から左に流していれば、デスクに怒られない程度の出席原稿くらい簡単にでっち上げられるから、まじめに勉強なんて、ばかばかしくてやってられないのか。

でもね、そんな、格付け会社なるものについての初歩的な勉強もしないまま、国債の評価が下がったから、さあ大変だなどと、例のオオカミが来たよとデマを叫んでついにはすっかり信用を失った少年のようなことをしていると、そのうち地獄に堕ちるよ。

茶道なるもので何を学んだのか菅伸子

また、あの希代のバカ女、菅伸子が話題を提供してくれました。ありがとう。

先日、このバカ女のアホ亭主である日本国総理大臣菅直人閣下が、格付け機関のプアーズだかなんだかが、わが日本国政府発行の国債の格付けを下げたことについてコメントを求められ、「そういうことには疎いので」とのたもうたことはみなさまご存じの通り。

今は、格付け機関なるヌエのような民間会社の問題性や、日本国政府発行の借金証書である日本国債の評価については立ち入らない。これらについては、後日あらためて話題にしたい。

29日、京都外国語大学で、「茶の湯と私」と題して講演した際、このバカ女、アホ亭主に、「疎いなんて言うんじゃない、知らなかった、というんですよと言いました」としゃべったんだそうだ。

「疎い」というのと「知らない」というのと、どこがどう違うのかね。分かる人がいたら教えて欲しいものだが、「疎い」も「知らない」も同じことだろうて。こういうのを、「めくそはなくそを笑う」とか「五十歩百歩」というのだろう。もう、ほとんど漫才の世界だな。ご両人は、総理大臣夫婦なんて柄にもないことはさっさと止めて、お遍路でもしながら、「元総理大臣とそのバカ女房コンビの漫才道中」でもやらかしたほうがよい。

もっとも、こんなネタでは、行く先々で、水でも浴びせられて追い払われるのがせいぜいだろうが。

ところで、この女、茶道の藪内流の師範だそうだ。

茶道の師範。うーむ。茶道、ね…。

当日の講演の演題が、「茶の湯と私」!?

まあ、一目、このバカ女の手には余る演題だが、引き受ける方も引き受ける方、頼む方も頼む方。

引き受ける方の厚顔無恥は言うまでもないが、頼んだ方の京都外国語大学とやらも恥ずかしくないのかね。

まさか、このバカ女の講演を学生に聞かせれば学生の情操教育上効果ありなんて勘違いしたんじゃないだろうが、有名人を講演に招けば話題になり、学生募集に好都合とでも考えたのなら、逆効果だな。こんなバカ女にこんな分不相応な演題で講演させる大学は、その見識が問われるよ。

さて、このバカ話を伝えたのは、あの朝日新聞のネット配信記事だが、記事の最後に、こうある。

「あの人はおっちょこちょいなんです。トップになったら、おっちょこちょいじゃすまないの」と語り、場内は笑いに包まれた。

笑い? この笑い、苦笑、嘲笑だろう。取材記者さんよ、取材はちゃんとして、取材したことをちゃんとした日本語で表現しなさい。そうデスクに言われてないの?  あ、そうか、デスクもちゃんとした日本語書がけないんだったね、いつも「政治とカネ」のオウム返しだから日本語忘れちゃったんだ。そうか、取材記者さんだけ、責めるのは酷だったね。ワルイワルイ。

「強制起訴」という呪文で立派な政治家をおとしめようとするチンケなマスコミ

このところ、マスコミが、一斉に、あの検察審査会による起訴議決を受けて、近々、指定弁護士が小沢一郎氏を起訴する運びだと報じている。

例の通り、ドッグレースの犬ですな、マスコミの諸君は。すわっとばかりに目の前の兎だかなんだかに飛びつきましたね。ポチが餌を見て、シッポを振るようで、分かりやすいことこの上ない。

叩いても叩いても動じる気配のない小沢氏に、あれれ、どうしたことだ、ふつうの政治家ならとっくに白旗を掲げて降参しているのに、おかしいな、自分たちの読者目くらましの術に翳りが見えてきたか、と動揺していただろうマスコミの諸君にとって、待ってました、おあつらえ向きの仕掛けがやってきたというところだろう。

よかったね、これでしばらくは、記事が書けるね、編集局の幹部にも怒られなくてすむね。

ホッとしたことだろうね。

というわけで、その、マスコミの諸君のホッとした浮かれ気分の代表選手として、朝日新聞にご登場願おう。

29日付の「小沢氏、31日にも強制起訴 陸山会の土地取引事件」と題するネット配信記事中の一文。

「市民の判断によって政治家が起訴されるのは初めてとなる。」

ほほー、「市民の判断」ね。都合良く「市民」を使うね、朝日の取材記者さん、デスクさん、整理記者さん。おまけに、この1行の文章、君たちのうれしそうな気分が伝わってくるようだよ。「小沢の野郎、今度こそ息の根を止めてやる」ってね。

ところで、「市民の判断」とは、あの胡散臭い検察審査会の、平均年齢が30いくつかだという審査員の判断のことを言っているのだろうが、その審査員の判断といったって、数回の会合で、ろくに資料を調べもせず、審査補助員の弁護士の意見を鵜呑みにして出した判断だろう。それって、君たちの、検察リーク情報垂れ流しの嘘八百報道で創られたこだまとか、やまびこみたいなものだよ。ま、元はといえば、例の「政治とカネ」の話そのものが、作・演出:特捜検察、スポンサー:霞ヶ関高級官僚軍団及び宗主国アメリカ、による猿芝居みたいなもので、その猿芝居の狂言廻しがあなた方の役どころというわけなんだが、わかっちゃいないだろうな。

その狂言廻し風情が、勝手に「市民の判断」などと決めつけちゃあいけない。「市民」もいろいろだからね。あの、菅直人君も「市民」運動家だったし、マスコミの報道を批判するこのブログ主も「市民」なのだからね。

朝日の取材記者さん、デスクさん、整理記者さん、まずは君たちの言う「市民」って、いったいなんなのか、そこのところをきちんと定義しなさい。そうでないと、君たちの言う「市民の判断」による「強制起訴」という文句は、なんとかして憎い小沢をおとしめてやりたいという気分をあらわすたんなる意味不明の呪文に過ぎないよ。

ダボス会議なる面妖な会合と例によってあの菅直人

世界経済フォ−ラムという団体が主催する会合が、冬のスイスのリゾート地で開かれている。あの菅直人が、政府専用機を使って、この会合に出席している。

政府専用機を飛ばすと、いったいいくらかかるんだ。数千万円?

そんな費用をかけてまで出る値打ちがあるのか、この会合は。

元々、スイスの大学の教員が始めた西ヨーロッパの経営者の会合が、企業の協賛金などを集めて規模を拡大し、いつの間にか、菅直人や、総理大臣当時の麻生太郎までもが、はるばる極東から、大金をかけてまで出席するような会合になったらしい。

どうも、胡散臭い団体の胡散臭い会合ですな。ウィキペディアによると、世界経済フォ−ラムなる団体は、国連経済社会理事会のオブザーバーだということだそうだが、そんなイチジクの葉っぱみたいな肩書きを着けたところで、いわゆる欧米エリートと金融資本家及び一部の産業資本家による、表面的にはともかく核心部分では実に閉鎖的な結社あるいはクラブのようであるし、いわゆるグローバリゼーション、すなわち国際的な商取引に関して自分たちの利益の極大化にとって都合の悪い制約を撤廃し、世界を弱肉強食の単一市場にしろと主張する利益団体のようにしか見えない。

そうではない、地球温暖化など環境問題にも積極的に関わっている、との指摘があるかもしれないが、環境問題も二酸化炭素の排出権取引に見られるように、国際的な金儲けのビッグチャンスになるという側面があることをお忘れなく。

そんな会合に、菅直人が、国民の税金をたいそう支出して、あのTPPとやらの、関税自主権を放棄し、農業始め国内地場産業が大打撃を受ける亡国政策断行の決意というか妄想を表明しに出かけた。

象徴的である。

菅直人は、政権交代の恩人を、検察(高級官僚)・マスコミ連合軍の悪巧みに生け贄として差し出すことで自己の出世欲を満たしたが、今度は、わが日本国の国益を、欧米の金融資本家及び一部の産業資本家に売り渡そうとしている。

こういうのを、売国奴というのではないだろうか。

小沢一郎氏への勝手な思いーその1

小沢一郎氏を見ていると、この人、政治家なんだけれど、実は政治家ではないのかもしれない、という思いが浮かぶ。

小沢氏の座右の銘「百術は一誠に如かず」。

ふつうの政治家は、己の願望を、「百術」を駆使して実現しようとするのだろうが、小沢氏は「一誠に如かず」を取るという。

あれこれ手練手管をめぐらすより、己の信念を愚直に訴え続けることを尊ぶのが小沢流なのだろう。ふつうの政治家とは次元が違うレベルの政治を小沢氏が目指しているようにも思える。

だが、しかし、嫉妬と裏切りが渦を巻き、百鬼夜行ならぬ百鬼昼行が現実の政治の世界で、一朝一夕に、小沢氏のやり方が実を結ぶとは思えない。だから、遠見では易々と、仙谷由人などという三百代言に、民主党の主導権を奪われてしまうことにもなるのだろう。

せっかく、「国民の生活が第一」に期待し、政権交代を実現させた主権者国民にとっては、今の民主党の有様は残念なことだが、しかし、見方を変えると、こうも考えられはしないか。

官僚主導は明治以来100年以上、米国の植民地状態は敗戦以来半世紀以上、かくも長く続いたアンシャンレジーム(旧体制)を変革するには、一回や二回の政権交代では無理なのであって、むしろ、今回の政権交代は、始まりの始まり、山登りでいうと、ようやく1合目に一歩踏み入れたというところなのではないか。

であれば、焦りは禁物、本当の民主政治、国民が主権者として政治を動す真の民主政治を実現するためには、地道なしかも王道を歩む行動の積み重ねが必要なのだ。

こうした亀の歩みに似た振る舞いは、時として、兎の如くすばしこい利巧者に先を越されるかもしれない。夜明けはまだ先かもしれない。

しかし、この1年ほどの政治の動きが、日本で真の民主政治を実現することの難しさを明らかにし、本物の民主政治を望むならそれなりの覚悟を固めることをわれわれ主権者に求めるきっかけになったと考えるなら、今回の政権交代は意味があったということではないか。

と、まあ、こんな感想とも諦めともつかぬ思いが浮かんでくるのだが。

小沢氏の胸中を去来するのも、ひょっとして、こんなことではないかというのは

ブログ主の勝手な思い込みか…

自分に甘く他人に厳しい日本経済新聞

昨日、電車内で乗客が読んでいる日本経済新聞(日経)の見出しにこうあった。

「規制改革 薬品販売をインターネットで」

記事の内容は、まあ、どうでもよい。この新聞社の社是は、規制撤廃・自由化万々歳なのだから、薬品販売が対面方式で資格のある者にしかできない、つまりインターネットではだめだという「規制」について、撤廃しろという論調で書かれているのだろう。

ここでは、薬品販売について、有資格者による対面販売に限定するのがよいのか、インターネット販売をもっと拡大するのがよいのか、には触れない。

問題にしたいのは、日経の新聞社としての根本的な姿勢である。

ご存じのように、新聞の値段は、ほとんど各社横並びで、しかも、販売店によって値段が違うということがない。これは、再販売価格維持制度(以下、再販制)なるものによって、新聞社が新聞販売店に対して、指定する価格でしか販売させないよう縛りをかけているからだ。

新聞社が新聞販売店に売る価格=卸売り価格に対して、新聞販売店が消費者に売る価格=小売り価格を、元売りの新聞社から見て2段階目の販売価格になることから、「再」販売価格と呼ぶ。この価格が、元売りの新聞社から見れば自分の望み通り維持されているから、再販売価格維持制度という。ややこしいですな。

これはおかしい。

身近な商品、たとえば食料品や日用雑貨を考えるとこのおかしさがリアルにわかる。

同じメーカーの同じ商品でも、店によって販売価格は異なる。スーパーだろうが専門店だろうが、小売段階では少しでも多くお客さんに買ってもらおうと、骨身を削って安売り競争をしている。日経が大好きな競争をね。

メーカーが小売りに対して定価販売を強いるようなことがあれば大問題になる。だから、メーカーでは価格を表示しないか、表示しても「希望小売り価格」とするのを忘れない。あくまで、小売りに対して、できればこの値段で売ってください、そうしてくれればメーカーの卸値も下げずに済み、利益も確保できるからという希望にすぎない。

ここで、ちょっと市場経済についてお勉強。

日本やアメリカ、EU諸国などは資本主義経済をやっているとされる。資本主義経済とは何か、ということについてはさまざまな定義の仕方があるが、ここでは市場経済がその核にあるとしておこう。

その市場経済だが、市場というと、一般消費者(つまり生活者ですな)と小売業の皆さん(八百屋さん、魚屋さん、スーパーなどですな)との取引が真っ先に思い浮かぶが、そればかりではなく、至るところに市場はある。学生さんが内定をもらえず苦しんでいる就職活動も、企業などの買い手と学生さんなどの売り手からなる労働市場が舞台だし、メーカーと卸・小売りとの間の取引関係も市場ということになる。

こうした市場での売買・取引では、ふつう、売り買いされるものは、需要と供給の大小によって、値段が上がったり下がったりする。この値段の上がり下がりが、逆に需要の大小を調整し、結果として、極端な品不足もなければ極端な売れ残りも生じない、過不足のない状態が実現する。

これを、経済学なる世界の人々は、希少な資源の最適配分を実現する市場の価格調整機能、などと呪文のごとき文句で表現する。

まあ、簡単にいえば、この市場の価格調整機能によって、ブログ主は、欲しいと思ったものを、お金さえあればだが、いつでも店に出かけて手に入れることができるというわけなのだ。(おかげさまで、ありがたいことです。)

というわけで、この市場の価格調整機能を妨げるような行為については、人々の円滑な日常生活を損なう犯罪として法律によって厳しく戒められている。

その法律は、日本では、私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律、略して独占禁止法という名前がつけられている。(以下独禁法)

ここで確認しておきたいのは、価格調整機能を妨げる行為は犯罪だということだ。犯罪というからには、加害者と被害者が必要だが、ここで、加害者は、価格調整機能を妨げる行為によって不当な利益をあげる者、被害者は、価格調整機能を妨げる行為によって不当に利益を損なわれた者、になる。市場を舞台にした犯罪だから、加害者は生産者、メーカー、供給者、発注者であり、被害者は消費者、卸業者、小売業者、下請け業者ということになる。

ここまでお勉強したところで、新聞の値段と再販制に戻る。

日経をはじめ、日本の新聞社は、ブログ主の知る限りすべて、再販制によって、小売り(新聞販売店、駅のスタンドですな)に対して定価販売を強いている。

この再販制による縛りがなければ、販売店やコンビニによって、より多くの読者を獲得するため、新聞の値引き競争が試みられるかも知れない。値引き競争が熾烈になれば、販売店やコンビニが、元売りの新聞社に対して卸売価格の引き下げを要求するだろう。新聞社と販売店やコンビニとの間の取引関係、すなわち市場が、日経の大好きな、規制のない自由な競争がおこなわれているのなら、新聞の価格は下がり、新聞社の利益も減少するだろう。

ところが、現状はといえば、再販制の縛りが効いて、新聞社と販売店などとの間の市場では自由な競争が行われていない。行われていないから、日経を始めとする新聞社は、自由な競争が行われている場合に比べて、不当な利益を上げている。不当な利益を上げているからこそ、日経を始めとする新聞社は、異常に高い給与体系を維持できるのだろう。反対に、小売業者である販売店などと消費者である読者は、自由な競争が行われていれば実現しているであろう価格よりも高い値段で新聞を仕入れさせられたり買わされたりすることによって、不当に利益を損なわれている。

つまり、簡単にいえば、日経を始めとする新聞社は、市場の価格調整機能を妨げる行為=犯罪を、公然とやらかしていることになる。

なぜ、あの、小沢一郎氏に対しては、「政治とカネ」という根拠のないデマをこれでもかと浴びせかける日本の大新聞が、白昼堂々、法律違反をやらかすことができるのか。これが、実に不思議、日本の大新聞による手品みたいなトリックがそこにはあるのです。

そのトリックとは、独禁法の例外として、新聞の値段に再販制を認めさせていることなのだ。

新聞以外に、雑誌・書籍・音楽ソフトについても、再販制が認められているが、はたしてこれらの商品を独禁法の例外とすることがいいことなのかどうかは今は触れない。

認めさせている理由は、おそらくこういうことなのだろう。(ブログ主が、たとえば、大新聞の幹部の立場なら、そう言いますな。)

新聞は、民主主義の基礎である国民の知る権利を守るという尊い使命をもっている、その尊い使命をもつ新聞が、安売り競争に巻き込まれて、経営状態が危うくなるようでは、国民の知る権利自体、民主主義自体が危うくなる。だから、新聞が不当に安売りされないように、再販制という規制によって守られなければならない。

………!?

うーん、こういうのを、「夜郎自大」とか「噴飯物」というのだろう。

まあ、百歩譲って、そういうことだとしても、それは、新聞が、本当に、国民の知る権利に役立っている限りにおいてのみだ。

ところが、どうだ。

現今の日本の大新聞が、国民の知る権利に役立っている?

嘘だろう。

特捜検察の筋書き見込み捜査情報を垂れ流し、「政治とカネ」のデマ宣伝で、知る権利を守るどころか、国民の目を晦ましているのはどこのどなたか。その大新聞が、言うに事欠いて、国民の知る権利を守るだなんぞとは、脳死状態の朝日新聞社説の名文句を借りれば、「開いた口がふさがらない」

ここで締め。

日本の大新聞の中でも、とくに、規制緩和万歳、市場経済万歳の日本経済新聞は、自分たちが、再販制という規制によって守られ、市場経済における自由な競争を妨げ、不当な利益を上げるという犯罪を日々重ねていることについて、あなた方の大好きな言葉で言えば、説明責任がある。ブログ主が、代弁したような説明では、これまた新聞の常套句「まだ説明責任を果たしていない」だよ。

ちなみに、日経が市場経済のご本尊として崇め奉るアメリカ合衆国では、新聞は再販制の対象ではない。

まったく、この連中ときたら、自分のことについては大甘のくせに、人には、口を開けば、規制緩和だ、自由な競争だなんぞと、よくも恥ずかしくなく言えたものだ。

罰が当たるよ。

日本経済新聞の罪と罰

昨日、電車内で乗客が読んでいた日本経済新聞の一面に、「年金給付50兆円突破 名目GDPの1割 1.8人で1人支える」という見出しがあった。

例によって、読者を消費税増税賛成に誘導する、財務省をはじめとする霞ヶ関高級官僚軍団のお先棒担ぎ記事だろうと見当をつけたところ、ビンゴ!大当たり。

日経のサイトにアクセスしたら該当の記事が全文載っていた。

最近、日経はネットの記事配信を一部有料化し、記事によっては最初の段落のみ閲読可能だが、続きを読みたければ金を払え、とまあ、蒲焼きの匂いだけ嗅がせて、お預けを喰わせるようなあこぎな商売をしているが、この記事は全文掲載されていた。この手の洗脳記事については広告宣伝扱いで大盤振る舞いということか。分かりやすいといえば分かりやすいが、まあ、なんとも現金な商売をするねえ、日経さん。ところで、日経のこの有料ネット配信ビジネス、引っかかる人がいるのだろうか。紙媒体はもちろん、ネットでまで、こんなゴミみたいな情報に金を払うなんて、ドブに捨てるようなものだが。

その記事だが、興味のある方はご自分でアクセスしていただくとして、ざっと筋をまとめると、至極簡単、以下の如し。

団塊の世代が年金受給年齢に達したので支払い額が増えた、現役世代の負担が増えるのはたまったもんじゃない、だから現役だろうが引退していようが、誰も彼も所得の多寡に関係なく払わざるを得ない消費税増税しか解決策はない。

と、こんな次第で、とどのつまりは、消費税増税万歳という霞ヶ関高級官僚軍団の提灯持ち記事というわけ。

ブログ主の異議は2点。

第1。

公的年金制度維持のためには、国民が払う保険料だけでは足りない、不足分に税金を投入するとして、その税金をどこからもってくるか。

日経さんは、消費税だ、と叫んでいるわけ。

だがね、霞ヶ関高級官僚軍団の既得権維持必要経費分プラスアメリカ合衆国への見かじめ料をまずはじめに差っ引いて、そのお余りでどうのこうのしようとすりゃあ、税金なんぞいくらあっても足りはしないよ。そんなことは、小学生でもわかる道理だ。なにも池上なにがしを呼んでくるまでもない。

問題はそこだ。この霞ヶ関高級官僚軍団の既得権維持必要経費分プラスアメリカ合衆国への見かじめ料をどうするか、そこのところを切り込まないで、霞ヶ関高級官僚軍団の筋書き通りの御託を並べているんじゃ、財務官僚のお先棒担ぎだの提灯持ちだの言われてもしょうがない。

日経さんよ、あんたがたも、ジャーナリストのはしくれだ、ぐらいに思っているのなら、お得意の調査報道とやらで、国家予算の大胆な組み替えシミュレーションをしたら、こうなりました、だから、年金財政はかくかくしかじかです、といった具合の記事を書いて紙面に載せてごらんよ。

第2。

結果としてこの記事は、年寄りを食わせるために、若い連中が犠牲になるんだ、怒れ! 現役世代よ! という具合に世代間の対立を煽っている。

いけませんなあ、こんなことをしては。マスコミの悪い面のもろ出しだ。

新聞は、報道・評論を稼業としている。評論だから、対象を批判的に取り上げることは当然ある。批判だから、誰も彼も満足する記事ばかりというわけにはいかないだろう。だが、だからといって、霞ヶ関高級官僚軍団の言い分を鵜呑みにして、そのお先棒を担ぎ、国民の間に分裂と対立を招くようなことをしてもいいということには断じてならない。

マスコミというものは、ドッグレースの犬みたいなところがあって、鼻先にダミーの兎だかなんだか、話題や事件をぶら下げられると、わき目もふらず追いかけるという習性をもっている。瓦版屋の昔から変わらない。この習性を、悪意の人物なり集団なりにうまく利用されると、とんでもないことになる。つまり、悪者連中の思うがままに虚偽情報を垂れ流し、読者や国民を間違った方向に誘導することになる。

古くは、ヒットラー率いるナチスの勢力拡大とユダヤ人虐殺。マスコミの皆さんは、知ってか知らずしてか、口を拭って言わないが、いかなヒットラー、ゲッベルスにしても、その言葉を伝える新聞やラジオがなければあんな大悪事を実行しようがなかった。(たしか、世界初のTV中継はナチスドイツの国威発揚のベルリンオリンピックの時ではなかっかたか)

近くは、1990年代の旧ユーゴスラビア紛争。凄惨な宗教・民族対立の修羅があったのだが、そうなるについては、政治指導者による対立を煽る言動を、これでもかとばかり垂れ流したマスコミの存在があった。

身近なところで、わが「政治とカネ」は言うに及ばず。

だから、この稼業にたずさわる皆さんは、そこのところを十二分にわきまえて事に当たらなければならないはずなのだが、「政治とカネ」ひとつとってもまったくできていない。前車の轍を踏まず、どころか、寸分違わず追随しているようにさえ見える。

斯くの如く、霞ヶ関高級官僚軍団の言い分を垂れ流し、結果として、国民の間に深刻な対立と分断を生じるような日本経済新聞の報道は犯罪的である。

彼らの罪は深い。

この罪に対する罰を、お天道様はなんとするだろうか。